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機動戦士ガンダムUC読了【~連綿と続くガンダムサーガ~】 [雑記 漫画・アニメ・小説・映画などなど]



遅ればせながらガンダムUC、読了した。


執筆スピードと比して恐ろしく濃密であらゆる側面からの意見、考証が飛び交い、その中で集束していく様は圧巻だった。

一応挿絵あるからライトノベルなんだろうか・・・?これ?

「大人のためのガンダム」というキャッチコピーは商業主義くさくてあまり好きではなかったが、
(作品とはビジネスである、それが大人というものである。といった話は福井氏自身がUCのホームページで語っていたと思うが)

小説だからこそ可能な表現、というものを見事に出し切った作品だったと思う。

ライトノベルの範疇だが、内容は極めてヘビー、とでも言っておこうか。





読了して、宇宙世紀から∀の時代まで、連綿と続くガンダムサーガの意味を理解した。

どの時代のガンダムのストーリーも、長大で悠久な時間の流れからすれば、一瞬の光でしかない。
人類は破壊と創造を繰り返す。

ならば、ガンダムサーガとは無意味なものなのか?
人類は何も学ばず、彼らの一瞬の光は何の役にも立たないのか?

私もそう考えていた。

先鋭的過ぎたニュータイプであったカミーユ・ビダンは思惟の力の放出とともに心を吸われ、
ジュドー・アーシタはニュータイプであることよりも、肉をもった個の人であろうとし、
大局には関わらず、木星へ旅立った。
世界に人の心の光を示そうとしたアムロはアクシズから帰らず、何も変わらぬ世界が残った。

そしてUCの時代・・・。

その後の顛末は既に語られている。

クロスボーンバンガードの争乱
コロニー戦国時代
木星帝国の戦争
ザンスカール帝国の台頭・・・

ラプラスの箱の中身が何であろうと、ミネバとバナージがどんなに足掻こうと、既に歴史は決まっている。
どんな綺麗ごとを言い、UCのストーリーに一応の幕引きをしようと、そんなものはなんの足しににもならないのだと。


そう思って読んでいたら、作品中でもそのことには何度となく言及されたのだ。

「箱を解放しようと、一時的なもので、またもとに戻るのだ」と。


では、箱の解放に、バナージたちの戦いに、UCという新たなガンダムサーガには、そもそものガンダムサーガに意味はあるのか?
あらゆる時代の断片の、繰り返される戦争と、それに巻き込まれ、必死に抗っては「巨大な歴史の流れ」に飲まれ消えていくだけの人間達
のストーリーなのか?


そうではないのだ。




無限に繰り返されるような破壊と創造は、円環ではなく、螺旋なのだ。

そして、非効率で、あらゆるネガティブな要素に漬かっているかのような人類の営みも、「善意」
が根源にあるのだ。

ヒトはこれからも、根源には善意を持ちつつも、打算や腐敗、争いを繰り返すだろう。

しかし、そんな非効率な営みの中でも、確実に人類は成長する。

自然を切り開く、反自然こそが、
ヒトのみが持ちえた、知・・・内なる神を、可能性を持つヒトの、成長なのだ。

悠久の未来、繰り返される地球圏での戦争の末、ヒトという種は、地球圏に僅かな人々のみを残し、
外宇宙へと旅立った。

それは、食いつぶした地球を捨て他の星を食いつぶしに行く、という捉え方もできよう。

しかし、一方で、地球に休息を与え、母なる地球を巣立って、更なる地平を目指す・・・
魚が陸に上がり、陸上動物が空を飛び、そしてついにはヒトが宇宙へと飛び出したことの次のステップ・・・
「生命」の進化の次のステップなのだと。
ヒトは・・・、「可能性」を持つヒトは、そうして成長していくのだと。


そして、そんな螺旋的な成長過程で起こる非効率・・・争いや滅亡の危機を乗り越えるのが、
一瞬の光である、ガンダムサーガなのである。

それぞれの光は一瞬であり、世界の大局には、悠久の時間にはほとんど影響を与えない。

しかし、、小さく、少なくあろうとも、彼らの可能性は、引き継がれる。

そしてまた、一瞬であろうとも、争いを終息させ、ひとまずの人類の成長を継続させる。


ガンダムサーガとは、そういった幾つもの断片的、不連続的な一瞬の光の数々なのだ。
次の瞬間には世界に飲まれ消えてしまっても、それらの断片は、次の世代に引き継がれていき、
また、ヒトを継続たらしめるのだ。





そしてもうひとつ。

ニュータイプの最果て、人類の究極の進化の形に対する考察がなされる。


「わたしはジャムになる」

と言った男をご存知だろうか?

その男は、正体不明の異星体、ジャムに、ヒトの身でなろうとした。
ジャムがどんな生命なのか、そもそも生命であるのかすら分からないが、
作中で断片的に描かれるジャムは、ヒトの理解の範疇を超えたもの、
ヒトには知覚できないもの、ヒトが住まう次元とは異なる次元に住まうもの・・・
といったものだと、「ヒトの身」からすれば理解される。
理解できないと理解するしかないのである。


ニュータイプ成れの果ては、大雑把にはそんなジャムに近いものである。
膨大な思惟の複合体・・・思惟の力で、この物理空間にあらゆる干渉を行える、
ユニコーンという機械の身体を得た神にも等しき存在である。
そんな「それ」からすれば、小さな肉に囚われ、散漫で、無秩序、非効率な思惟を
飛び交わすヒトは甚だ低位なものに見える。

深遠な知覚も思惟も得られない、取るに足らない存在だと。

しかし彼らは、そんな非効率な存在でも、考え、もがき、前進していく。

そして、肉の体を持つからこそ、他者との区別があるからこそ、

傷つけ、しかし愛し、温もりを求めるのである。


肉の持つ温もりから飛び出し、孤独な超越者となることが人類の究極進化なのか?

それもまた可能性の1つなのかもしれない。

しかし、ユニコーンに生まれた「それ」は、
ヒトという不自由な種の持つ、可能性、不自由さが持つ「揺らぎ」の可能性
を思い、刹那の世界に、肉の世界に帰った。



新訳Ζで、富野監督は語る。
「真のニュータイプとは、今までのニュータイプ論で描いた精神的な共感に加えて肉体的な体感を持ち、
それらを隣の人を大事にするために活かすことができる人である」
と。


ニュータイプかオールドタイプかなど、結局、ヒトは軍事的な面でしか区別できなかった。

軍事的な面でニュータイプでなくとも、強力な精神の共感力などなくとも、
自分の気持ちを伝えたい、分かり合いたい、という、生身の体感こそが、
多くの普通の人々にとって重要なのだろう。









こうして、ネオ・ジオンの残党は壊滅、サイド3の策謀も潰え、シャアの亡霊も宇宙へ還った。

サイコフレームの技術は禁忌として抹消された。


宇宙世紀96年におきた一連の出来事は、

一瞬の光を放ち、そして時が流れる。


世界は大きくは変わらない。でも、ほんの少しの揺らぎを、ヒトの心に残せる。

その善意が、可能性が、ヒトという種を前進させるのだ。


悠久の時間での「種」の成長と、一瞬の時間での「個と個の結びつき」・・・

すべてのガンダムサーガは、その断片なのだと、今は思う。




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オッツダルヴァとテルミドール②【クローズプランとオーメルのシナリオ】 [考察 アーマードコア]

輝美と乙樽のつづき


【単一人格説】


裏切りの説明がなかなか面倒臭そうだが、私としてはこっちを真剣に考えたい。


まず、テルミドールとオッツダルヴァでは、
解離性同一性障害にしては人格の分かれ方が不自然である。


カラードランク1の人格と、オルカ旅団長の人格・・・そんな分裂の仕方をする
心的外傷ってなんだよ!!ってことになる。

しかも、最後の「貴様ごときがオルカを騙るとは」の台詞から、記憶を共有しているものと思われる。
というか、記憶を共有していて、機体の好みや性格も変わらないなら、人格違うの?と突っ込みたくもなる。

オッツダルヴァはクローズプランなどそっちのけで、
主人公と戦ってみたいという性格の違いはあるのかもしれないが・・・。



そもそも水没後のオルカお茶会の
「これでやっと最初に戻ったな」
「誰が手間をかけさせたのか」
「すまんな。完璧主義者なんだ」
の台詞から、オッツダルヴァとしてカラードのランク1として振る舞い、
水没という「ヤラセ」で姿を消し、
オルカに合流する、
というのがテルミドールのプランであろう。

オッツダルヴァとは、オルカ旅団長テルミドールの「演技」と考える。
「空気、空気」言ったり、笑える毒舌が多いのも、
ランク1としての、演技だろう。

カラードのランク1に対する皮肉すら、私は感じる。
カラードのランク1なぞ、他者を見下し、傲慢に振舞う割には、呆気なく死ぬのだ、と。


また、ウィンDはテルミドールを、企業連ルートの最後に、「オッツダルヴァ」
と呼ぶ。
そこには、2つの名を持ちつつも、その精神は1つである、という印象が漂う。



さて、そんなテルミドールの、クラニアムでの振舞い・・・
ここから先は、ノーマルとハードで背景を変えて考えてみよう。

あくまでもわたしのフロム脳です。要するに好みが反映されています。
当然解釈の可能性の1つということで・・・。


【ノーマル】
これは楽。

メルツェルとの示し合わせの通り、テルミドールはクラニアムに行き、そこで斃れる。
主人公は、最後のオルカとなった。

メルツェル、ヴァオーはビッグボックスでウィンDに敗北、
古王はオルカを離反し、クレイドルを襲撃、
銀翁は引退? 死亡ではなく、クローズプランの第2段階のためにトーラスに帰ったか。
ジュリアス・エメリー アルテリアを襲撃するものの失敗?
真改 テルミドールとともにクラニアムで斃れる?


テルミドールとオルカの意志を継ぎ、主人公は立ちふさがる2人のリンクスを倒し、
人類の宇宙への道を拓いた。


【ハード】
これは面倒。何故あそこでテルミドールが裏切ったか、の考察が欠かせない。

私が考える筋書きは以下の通り。


~オーメルの目論見~

地上での経済戦争にも資源的に限界があり、
またクレイドル体制は、宇宙移住のための時間稼ぎに過ぎない。
しかし、他企業とは(安全な)経済戦争の状態

(敵対的、競争的成長関係
=本当に仲が悪いが、仲が悪くて互いに潰しあうことで互いに成長する関係。
クレイドル体制を維持する点で安全である)

にあり、1枚岩での行動が難しい。



~レイレナードの亡霊~

リンクス戦争時、レイレナード社はアサルトセルを破壊しようとした。
(レイレナード=アクアビットの戦争の動機はいまいちはっきりしないが、
アサルトセル破壊のため、などという崇高な目的ではなく、
表面上の平和と、水面下での代理テロが続いていた
パックス・エコノミカを終わらせ、GAにいちゃもんつけて
水面下でくすぶる企業同士の対立の白黒をつけようとしたのだろう。

GAによるGAE粛清が、アクアビット=レイレナードにとって脅威だったとも言える。

そして、恐らく、オーメル陣営としても、
レイレナード陣営の宣戦は願ってもないことだったのだろう。

真正面から相手を潰す、大義が出来たわけだから。


パックスでの企業間直接戦闘はアナトリアとアスピナの傭兵によって、オーメル優位に進んだが、

レイレナード陣営は、主力ネクストによる奇襲を敢行、オーメルは致命的な打撃を被る。
ここにいたって、リンクス戦争が勃発する。

このリンクス戦争自体が、テルミドール曰く「企業の罪を秘匿するためのもの」だったらしい。

それが真実かは分からないが、
うわべだけの秩序のベールを剥がし、
利権、利潤をもとめて企業は争った。
その中で、レイレナードは次世代のフロンティアとして宇宙を志向し、
アサルトセルを破壊しようとしたのだろう。


彼らの野心は、アナトリアとアスピナの傭兵によって打ち砕かれ、
その意志は、オーメルに吸収されることとなった。



~オルカ旅団~
レイレナードの亡霊を吸収したオーメルは、オルカ旅団を設立。団長に、旧レイレナードの
リンクスを当てる。
オルカ旅団の目的は、
急場しのぎであるクレイドル体制に対し、真っ向からアサルトセル破壊を提案できない、
あるいは、提案しても他企業に支持されないため、
テロリストによって、クレイドル体制を脅かし、アサルトセルの除去までやってもらう、
というものである。

オルカ旅団の声明にて、アサルトセルの情報が一般市民に公開されたかは、微妙なところ。
「マクシミリアンテルミドールは嘯く。
『国家解体戦争もリンクス戦争も企業の罪を秘匿するためにあった。
犠牲なき解決の機会は、既に失われている』」

この文言からは、公開されていると考えるべきか。

【追記】
企業の罪を秘匿し、首脳生命を安堵する密約が結ばれたことから、公開はされていないかもしれない。

だとしたらオルカ旅団は大変便利な存在である。

アサルトセルを、何も出来ない老人たちに代わって破壊してくれた上で、 最後はカラードリンクスに討たれて消え去る。企業はその立場上、自らクレイドル体制を終わらせられないし、企業連内で意思統一もできない。テロリストにやらせるのが一番手っ取り早い。

ルートによって色々あるが、ヴァオーとメルツェルはまさに当て馬の役を買って出たわけだし、ハードでの輝美の裏切りも、本人の内心がどうであれ、オーメルとしてはカラードランク1だけは手元に戻すつもりだったという考え方ができる。なんとも企業にとって都合の良い、使い捨てのテロ集団である。

テロによってクレイドル体制が崩されたことへの人民の不満は大きいだろうが、その多くは長くは生きられない。企業はクレイドル体制の終焉を嘆きながらも、テロリストの残滓を追い立て、そして汚染された地上で疲弊しきった人類に宇宙という新たなフロンティアを提示する・・・。
数を大きく減らした人類は、汚染しつくされた惑星からの脱出、という新たな希望を見出す。オルカという狂気の反動勢力は、オーメルによって筋書きされたテロリズム、大きな痛みと絶望の果てに希望を与えるシナリオだろうか・・・。





~アルテリア襲撃~
慌てふためく老人達を尻目に、すべてがシナリオ通りのオーメル。

しかし、企業連ルートでは、ウィンDの予期せぬ妨害が入り、
オルカ旅団はクラニアムにて全滅。
オルカを使ったアサルトセル除去は失敗する。

オーメルは内心穏やかではないが、表面上ウィンDに賛辞を送った。



オルカルートでは、

オーメルの筋書きでは、
クラニアムを制圧し、アサルトセルを解き放った後、
テルミドールを再びオッツダルヴァとしてオーメル内に呼び戻すことになっていた。

行方不明のランク1が奇跡の生還。

アルテリアは落ち、クレイドル体制は「止むを得なく」崩壊したが、
我々には宇宙への道が拓かれた。

クレイドル体制の終焉を、仕方のないこととする一方で、
宇宙への道が拓かれたことで大衆の関心を逸らすのである。


アサルトセルの秘匿、テロを防げなかったことへの、
企業への民衆の不信感云々はあるだろうが、そんなことよりも効率なのだろう。
老人達よりもテロに頼ったほうが、速いと。
そもそも企業は絶対的支配者である。民衆の心象なぞ毛ほども気にしないと考えていい。


が、しかし、テルミドールはオーメルの筋書きを拒んだ。


道化としてオーメルに戻るよりは、

オルカを託すに相応しいか否か、主人公を試した。

無論、自らの死に場所としてである。

3対1、全力で挑んでも、主人公には勝てないだろうと、テルミドールは考えていた。

それでいい、と。


オルカルートのウィンDがテルミドール=オッツダルヴァを見抜いているかは明確ではない。
企業連ルートでははっきり見抜いているが、
オルカルートでは、
「ならば自分で死を実践してみせろ。テルミドールとおなじようにな」と言う。

そして、オッツダルヴァは、
「テルミドールは既に死んだ。ここにいるのは、ランク1、オッツダルヴァだ」
と言う。

スミカの「テルミドール、裏切ったか・・・」の言葉もその場の人間全員に聞こえているなら、
ウィンDも分かっていると予想できる。


つまり、主人公がクラニアムに至る前に、テルミドール=アンサングはウィンDに撃破されている。
そしてテルミドールは、オーメルからステイシスを受領し、企業側の人間としてクラニアムに立つ。

オーメルの読み違いは、オッツダルヴァが最後のオルカたる主人公に敵対しようとしたことだろう。
オーメルに戻る分にはいいが、クローズプランの邪魔はするなと。
しかし、オッツダルヴァは、道化としての人生に決別し、未来を主人公に委ねて死ぬために、
クラニアムにオッツダルヴァとして立ったのである。








むむむ~~~~~

我ながら、展開に無理がありますな。

もっと美しいフロム脳もありそうです。


このフロム脳では、全てはオーメルの自作自演ということにしてますが、
オーメルもまた老人達の1人に過ぎない、というスタンスも面白いかと。


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オッツダルヴァとマクシミリアン・テルミドール [考察 アーマードコア]

久しぶりにニコニコしたらfAの未使用音声が色々出ていた。

スミちゃんすげえな・・・。

未使用音声というのは、没になったキャラの性格なのだろう。

水没王子が、「参戦する!!」とか、「母さん!!」とか言ってたり、
スミちゃんが「私のリンクス」とか、「かあ様(多分自分のこと)」って言ったり・・・

ちょっと本編でも聞いてみたかった気もするが、未使用だからこそのニヤニヤ感というのもある。
実はこんな一面も隠れてたんだぜ、みたいな。


さて、そんなわけで久しぶりにフロム脳が活性化。

今回は乙樽と輝美についてちょいと考えてみよう。




しばしば聞くのは「二重人格説


テルミドールの説明には、「複雑な、あるいは分裂した男」とある。

彼の性格が現れている台詞としては、

熱っぽい扇動家
「オルカ旅団のお披露目だ。諸君、派手に行こう」

諦観者
「人は活力を失い、諦観のうちに壊死するだろう」「状況は既に手遅れだが、同時に緩慢だ」「最後に敗れる、そんな定めか・・・」

ロマンチスト
「活力、諦観、壊死、惰弱などの印象的な言葉遣い」、「ブリーフィングで語る人類を救い宇宙への道を切り開くことへの思い」

こんなところか。


状況や本人の気分によって、声色や印象が大きく変化するところは、複雑な人物像を想像させる。
お茶会の様子を見る限り、基本的には沈着冷静な人物のようだ。
扇動家としての側面は、演技であるとも取れる。


それでは、「あるいは分裂した」とは・・・?


まずは勉強。








ウィキペディア【解離性同一性障害】

解離性同一性障害(かいりせいどういつせいしょうがい)は解離性障害の一種で、虐待などの強い心的外傷から逃れようとした結果、解離により一人の人間に二つ以上の同一性または人格状態が入れ替って現われるようになり、自我の同一性が損なわれる疾患。略称はDID
(Dissociative Identity Disorder) である。

なお、一般に使われている「多重人格(たじゅうじんかく)」(もしくは「二重人格(にじゅうじんかく)」)という語は必ずしもこの疾患を指しているとは限らない。かつてはこの疾患を多重人格障害(略称MPD, Multiple Personality Disorder)と呼んでいたが、これはDSM-IIIにおける旧称、または、ICD-10における呼称である。発症原因に不明の部分が多く、現象論ばかり展開される傾向にあるので予断は禁物である。


概要 [編集]

多重人格障害の旧称が表す通り、明確に独立した性格、記憶、属性を持つ複数の人格が1人の人間に現れるという症状を持つ。ほとんどが人格の移り変わりによって高度の記憶喪失を伴うため、診断が遅れたり、誤診されることが非常に多い疾患である。つまりは精神科医療の分野でも正確な知識を持たない医師、臨床経験が無い医師が多く、精神科で受診しても治療不能となる場合も多々あるのが現状である。

解離 [編集]

詳細は「解離性障害」を参照

解離とは、記憶や意識、知覚など、本来ならば一人の人間が連続して、かつ、統合して持っているべき精神機能がうまく統一されていない状態を指す。白昼夢に耽ってふと我を忘れるのは軽い解離の一例である。

一方、人間は想像を絶する苦痛に見舞われた場合に防衛機制として解離を起こすことがある。痛覚などの知覚や、記憶、意識などを自我から切り離すことによって苦痛から逃れるのである。現実逃避と混同されがちだが、現実逃避が単なる精神的遁走であるのに対し、解離は実際に痛みを全く感じなくなったり、苦痛の記憶が丸ごと消失したりする点で大きく異なる。
同一性 [編集]

人間は成長するに従って、その身体に対応した1つの確固とした人格とそれに対応した記憶がそれぞれ形成されてゆき、時間や場所が変わってもこれらが変化することはない。自分の体は自分だけのものであり、自分の記憶は全て自分だけのものであり、いつどこにいようともそれが変化することはない。これを自我同一性と呼び、この疾患を持たない者にはごく当然のことである。

解離性同一性障害 [編集]

解離性同一性障害は、この解離が高度に、かつ繰り返し起こることによって自我の同一性が損なわれる(同一性が複数存在するとも解釈できる)精神疾患である。

人間は(特に幼児期に)、繰り返し強い心的外傷(トラウマ)を受けた場合、自我を守るために、その心的外傷が自分とは違う「別の誰か」に起こったことだとして記憶や意識、知覚などを高度に解離してしまうことがある。心的外傷を受けるたびに「別の誰か」になり代わり、それが終わると「元の自分」に戻って日常生活を続けるのである。

解離が進み、「別の誰か」になっている間の記憶や意識の喪失が顕著になり、あたかも「別の誰か」が一つの独立した人格を持っているかのようになって自己の同一性が高度に損なわれた状態が解離性同一性障害である。事実、解離性同一性障害の患者は「別の誰か(以降、交代人格と呼ぶ)」になっている間のことを一切覚えていない事が多く、交代人格は交代人格で「普段の自分(主人格と呼ばれる)」とは独立した記憶を持っている事がほとんどである。

このような理由から、解離性同一性障害の患者のほとんどが幼児期に何らかの虐待、特に児童虐待を受けている。そしてその多くは性的虐待である。

なお、欧米にはイマジナリーフレンド(imaginary friend=想像上の友人)という概念があるが、これは幼少の子供に普通に見られる現象で成長するにつれ消失するのが普通である。イマジナリーフレンドが強いストレスにより交代人格化することはあり得るが、単なるイマジナリーフレンドを持つことでこの疾患と診断することはできない。このことは、DSMの定義にも明記されている。

「普段の自分」と「別の誰か」は基本的には上記のように別の記憶をもっているが、「別の誰か」が「普段の自分」に対し【記憶を引き継いでもいい】と判断した場合は、「普段の自分」に記憶が引き継がれる。 但し、「記憶の引継ぎ」のタイミングについては個人差があり、
数日後若しくは数週間後に突然記憶が引き継がれるケースもあり「普段の自分」が困惑してしまうケースがある。


治療 [編集]

この疾患においては、本格的な研究が始まったばかりであることから、確立された治療法はまだ存在しない。完治することがあるのかどうかさえ議論の対象になることがあるが、完治の報告が存在することを踏まえると、不治の病と断定するのは早計である。

また、この疾患においては、「完治」の定義が曖昧になることがある。大きくわけて、「完治」とされる状態は次の2つに分けられる。
人格状態が1つになり、記憶がすべて戻った状態
人格状態は複数のままだが、日常生活に支障がない状態

2番目については違和感を覚えるかもしれないが、例えばDSMによれば「日常生活を送るのに支障がない」限りそれはこの疾患の要件を満たさない。したがって、依然として複数の人格が存在する状態であっても、問題なく日常生活が送ることができるようになれば、それを「完

治」としても差し支えがないと考えるのである。

この疾患では強い不安やうつ状態、不眠などを伴うことが多く、カウンセリングによる治療は必須であると考えられているので、医師とセラピスト(心理カウンセラー)の両者を適宜利用することが求められる。医師にはカウンセリングを行う余裕がない場合が多く、セラピス

トは睡眠導入剤などの必要な投薬をすることができないからである。

以前は、人格統合を行うのが最善の治療であると考えられていた。人格統合とは、人格を1人ずつ消していく(医師・セラピストの中には人格に自殺をさせたり、悪霊払いのような手法をとるものもある)、あるいは似通った人格同士をカウンセリングにより統合することで最終的に1人の人格に戻すという治療法である。しかし、最近ではこの治療法については否定的な意見も多く、複数の人格はその必要があるから存在しているのであって、無理に消去することはかえって患者の状況を悪化させると考えられている。人格統合の手法を取らず、人格同士がお互いに協力し合って生活を送れるようにする「共存」を目指す治療法も存在する。

現在では、まず患者の状態を正確に把握すること、次に人格同士の誤解や対立をなくすと同時に主人格を含む各人格の精神の安定を目指すことが第一だとされる。つまり、システムの把握と安定であるが、これには長い年月を要する場合が多い。ほとんどの場合、主人格の知らない心的外傷(いわゆるトラウマ)体験の記憶を交代人格が別個に持っており、その場合交代人格に対しても別個に心的外傷の処理が必要とされる。患者の安全を考えた場合、この作業は人格同士の統合や共存よりも優先されるべきであろう。

喪失した記憶を無理に引き出すことは良くないとされる。交代人格から聞いた心的外傷体験を、その体験の記憶のない人格に知らせることも同様である。この疾患を持つものは心理的に非常に不安定な状態にあることが多く、また、抱えている心的外傷も長期にわたる凄まじいものである場合が多いので、いたずらに心的外傷を想起させることは、パニックや自殺などの大きな危険を伴うからである。

このようなさまざまな理由から、患者とセラピストの信頼関係の確立も重要な要素となる。システムの安定に伴い、心的外傷体験の想起と再記憶といったPTSDの治療に似たプロセスが慎重に行われる。

投薬は、対症的に抗不安薬や睡眠導入剤などが多く使われる。症状が重い場合は抗精神病薬が用いられる場合もある。しかし、この疾患の治療には非常に長い時間がかかるため、身体への負担を考慮してなされるべきであろう。また一般にこの疾患の患者が薬物依存を生じやすい傾向にあるとされる点にも留意する必要がある。

治療には何年も要するのが普通であり、医師やセラピストの適切な指導のもとで根気強い治療が必要である。 それは家族に対しても同様であり、家族内のものがこの疾患についてより学び、本当の意味での苦楽を共有することも必要である。

解離性同一性障害に対する誤解 [編集]

解離性同一性障害は精神医学で認知されてからの歴史が非常に浅く、その特徴的な症状から比較的誤解されやすい疾患であると言える。

架空の病気であるという誤解 [編集]

もっとも大きな誤解が、この疾患は存在しない架空の病気であるという考えである。

その理由の一つとしてよく挙げられるのが、近年における急激な症例の増加である。そもそもこの症例はアメリカで主に報告され、その他の地域では滅多に見られないとされていた。文化依存症候群とみなす人もいたほどである。

ところがアメリカのDSM-III(関連用語の項参照)で多重人格が取り上げられて以降、世界中で症例の報告が相次ぎ、12年後にはICD-10(関連用語参照)にも多重人格のカテゴリが作られることになる。この現象の説明として、この疾患の存在を知った者が相次いでこの症状を詐病したのだという主張である。

しかし、この疾患は、統合失調症の診断基準の一つであるクルト・シュナイダーの一級症状の全て、あるいはその大半を満たすケースが多く、同時にうつ病や境界性人格障害に似た症状を示す(あるいは併発する)ことが多いため、DSM-III以前は他の疾患と誤診されてきたのだろうと考える方が妥当である。事実、多くのこの疾患の患者は、その診断が下される前に何らかの誤診を受けている。

また、この疾患があまりに特徴的であるため今まで憑依現象(例えばキツネ憑き、狸憑き、馬憑き)などの心霊現象として片付けられていた可能性も高い。広義のシャーマニズムは世界中に存在し、憑依が起こる様子がこの疾患の人格交代時の挙動に類似しているケースも多い。

さらにその特徴的で他人の興味を引きやすい症状から、虚偽性障害や詐病の対象となることが多い事実も挙げられる。このことがこの疾患の誤った認識を生み、またこの疾患の診断をより難しいものにしているとも言える。


他の疾患との混同 [編集]

もう一つの誤解が、別の疾患との混同である。専門家の中にさえ、この疾患を統合失調症の症状の一つだと断定しているものもいるが、統合失調症とこの疾患は、類似する症状が多いものの、全く別の疾患であるというのが現在の考え方である。

また、以前は解離性障害がヒステリー(転換性障害と解離性障害の総称。現在はこの用語は用いられない)の一種としてカテゴライズされていたため現在でもこの疾患が俗語的な意味でのヒステリー(一時的な感情の爆発)の一種と誤解されることがある。しかし、感情の爆発で人が変わったようになることとこの疾患とは何の関係もない。

さらに、解離性障害境界性(人格)障害、多重人格障害と人格障害など疾患名の相似からこの疾患と境界性人格障害とを混同している例も非常に多く見られる。解離性人格障害という両者を完全に混同した病名を目にすることも多い。この疾患が境界性人格障害に似た症状を示す(または併発する)例が多いこと、逆に境界性人格障害の患者が同一性の障害や解離を示す例が多い事実が、この混同をより深刻なものにしている。かつて「多重人格障害」という診断名が用いられていたことから誤解が生じる場合があるが、この時期から現在に至るまで
、この疾患は一貫して「解離性障害」の一種とされ人格障害に分類されたことはない。

その他、混同されやすい類似した名称をもつ疾患 [編集]

次の疾患はいずれも解離性障害には含まれず、全く別の疾患である。
回避性人格障害
性同一性障害
性格の多面性との混同 [編集]

この疾患に対し「人間誰しも多重人格的な部分がある」と言うものもあるが、性格の多面性とこの疾患とは根本的な違いがある。前者が単に口調や応対の変化に留まるのに対し、この疾患の患者は人格ごとに独立した記憶を持っている点である。これはそれぞれの人格にとって、記憶喪失として現れる。
また、氏名・性別・年齢・食(服)の好み・口調・筆跡などもまったく異なる。

上部の記述にあるが、「普段の自分」と「別の誰か」は基本的には上記のように別の記憶をもっているが、「別の誰か」が「普段の自分」に対し【記憶を引き継いでもいい】と判断した場合は、「普段の自分」に記憶が引き継がれる。 但し、「記憶の引継ぎ」のタイミングについては個人差があり、数日後若しくは数週間後に突然記憶が引き継がれるケースもあり「普段の自分」が困惑してしまうケースがある。

用語 [編集]

システム
system。この疾患の患者個人が持つ全ての人格状態とそれらの関連、それらを取り巻く全ての精神的要素などを1つの体系とみなし、便宜的にこう呼ぶ。人格システムともいう。

人格状態
ego stateの訳語。システムに複数見られる、あたかもそれぞれが一個人かのように独立した自我状態のこと。名前、性別、年齢などが戸籍上のものと異なる場合もある。単に人格(personality)と呼ぶこともある。同一性(identity)とも。

基本人格
original personalityの訳語。オリジナル人格とも。出生時に持っていた本来の人格。複数の人格状態を持った時点で基本人格は失われるとする見方もある。

主人格
host personalityの訳語。基本人格と混同されがちだが、こちらは普段外的に活動している時間が長い人格のことを指して呼ぶ。戸籍上とは異なる名前を持っていたり、ある時期から主人格が別の人格状態に交代するケースも珍しくない。

交代人格
alter personalityの訳語。主人格かつ/または基本人格以外の人格状態を指す場合が多い。

保護人格
保護者人格とも。交代人格のうち、システムやその肉体を守る行動を取る人格。これとは逆に肉体や精神に意図的に危害を加えようとする人格もまた存在する。

ISH
Inner Self Helperの略。「内的自己救済者」。ラルフ・B・アリソンが1974年に最初に提唱した概念で、アリソンは、誰もが持つ「超自我」または「理性」が人格システムに見えている状態がISHであるとした。アリソンの考えに従えば、ISHは統合の対象とはならず、通常システムにつき1人しか存在しないことになる(ただしアリソン自身、複数のISHが「階層的」に存在するケースを認めている)。ISHの本質については、リチャード・P・クラフトがアリソンのものよりも曖昧な定義を発表するなど、専門家の間や熟練した治療者の間でも意見の相違がある[2]。


統合
integrationの訳語。人格状態同士を結びつけることでシステム中の人格状態の数を減らすこと。狭義には人格状態を1つにすること。以前はこの疾患の治療目的と考えられていた。





長々とした引用はここで終了。






要するに、多重人格というのは、SFやサイコ系のフィクションの世界のお話ではなく、現実に存在する疾患である。



さて、結局ACの考察というのは、その人の好みによるところが大きいわけで、

私の場合は、サイコなノリの、いわゆる「フィクション的な多重人格」というのはあまり認めたくないので、
(なるだけリアル志向で考えたいということ)
多重人格=精神疾患であり、社会生活になんらか支障を来たすだろうというスタンスになる。



テルミドール多重人格説の理由となるのは、やはりクラニアム襲撃(ハード)での謎の裏切り行為。


「テルミドールは既に死んだ。ここにいるのは、ランク1、オッツダルヴァだ」
オッツダルヴァに撃破されると
「増長だったな。貴様ごときがオルカを騙るとは」と言われる。

多重人格説を取るなら、

「テルミドール(の人格)は既に死んだ。ここにいるのは、ランク1、オッツダルヴァだ」
「増長だったな。貴様ごときがオルカ(=テルミドール亡き後の最後のオルカ団員)を騙るとは」


「騙る」というのは、「だます」ということ。
要するに、自分にやられる程度の人間が、
テルミドールの代わりに「最後のオルカ団員」として振舞うことが、
オルカの名を騙っている(=まがいもののオルカ)ことになると、オッツダルヴァは言っている。



さて、オッツダルヴァの人格がそんなことを言う必要があるのかどうか・・・。

テルミドールの作ったオルカの名の重さを、オッツダルヴァが気にする必要があるのか・・・?
オッツダルヴァはテルミドールなのだが、別人格なのだ。
肉体は一緒でも、人格は別なのだとしたら、
「テルミドールは自分自身なのだから、テルミドールのオルカの名の重さも自分にとって重要だ」
と考えるのは奇妙にも感じる。

加えて、「テルミドールは既に死んだ」と言い、テルミドールの人格が死んで嬉しいとも言わんばかりの
台詞である。
このことからも、テルミドール、すなわちオルカの名を重んじるようなことを言う動機はないのではないか?

なお、ウィキペディアの引用にもあるように、人格が「死ぬ」こと自体はある模様。
何の理由もなしに死ぬことはないだろうが。(そもそも解離性同一性障害自体、精神的なストレスで発症するものである)



多重人格説でありえそうなのは、

テルミドールの人格は死んでしまった。テルミドールは主人公のことを認めていたが、オッツダルヴァとしても、
銃を交えて主人公のことを試したい、戦ってみたいといったところか。
それでオルカを継ぐに相応しいか見定めようとした、と。






まあしかし、ハードモードのオッツダルヴァ、撃破時の台詞がない。どうにもハードのためにゲームのご都合的に裏切ったように見えてしまう。




ちょっと長くなったので、単一人格説については、次の記事で。


AC6の感想 [雑記 エースコンバット]

AC6も苦戦したものの一周目をクリア。

う~ん。微妙な作品だった。



戦闘機やミサイルの航跡、弾幕、雲なんかはさすが次世代機、すごいの一言に尽きる。

が、流石に敵が多い気も・・・レーダー切り替えが箱○のコントローラでは不便(アナログ切り替えではない)なので、
ごちゃごちゃで大混乱・・・。

まあ、特定のTGT表示もできるが、全体の戦局が分からなくなるので使っていない。

ミッションもどうにも燃えない・・・。
04のような窮地からの大反撃ストーリーなのだが、04のミッション展開、多様な戦場のような楽しさはない。
夜間、朝、夕方、
砂漠、海、都市、山岳、ジャングル・・・

6でもこれらは無いわけではないが、魅せかたが下手。どうにも似たような印象のステージが多く、記憶に残らない。なんか平野で味方を助けたな~とか、山岳地帯の要塞攻略したな~程度の記憶しかない。

最後のダメだしが、サイドストーリー。

理由は上手くいえないが、二度は見る気が起きない代物。
あの置いてきぼり感、登場人物の描写の薄さは酷い。
色んな人が出る分、個々人が薄くなるのは仕方がないのか・・・?


6において、後世に残るであろう台詞は、

「天使とダンスでもしてな!!」


「壮観だな。紳士が一同に会すると」(あってたっけ?)


この台詞を使用したアーッ!!なMADが確実に作られる予感・・・

屈強なガチムチ紳士が一同に会するとは・・・壮観だ。
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