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米国とトヨタ自動車 [戯言]

なんだこのタイトル・・・


ここでこんな記事なぞ・・・柄ではない。

ニュースに対する記事は基本かかないことにしている。
ああだこうだ言ったところで、それは素人意見に過ぎないからだ。

矛盾、堕落、腐敗、停滞・・・そんな問題が山積みの嫌な世界だが、それらには、
まあ、何かしらの理由がある。
それは利権だったり、色々あるのだろうが、少なくとも単純に感情論で素人が意見を述べるべきものではないと思っている。

まあ、しかし今回は、ちょっと書いてみましょ。



トヨタ車がアメリカでリコールになり、ものすごい叩かれっぷりである。
これに対して、日本人のスタンスは、
恐らく(推測)「貿易摩擦だ」「さすが訴訟大国、いちゃもんつけて勝訴する」「米国自動車メーカーのえこひいき」
そんなところだろう。

これに対して私は、「だいたいあってるんじゃない?(推測)」と感覚的に思う。
ただし、「だからアメリカ国民もアメリカ政府もダメなんだ」とは思わない。


①アメリカ国民は良い製品であれば買う

その昔、日本製の工業製品なぞ、アメリカ人からしたら粗悪で買う気がしない、という位置付けだった。
高度経済成長期とオイルショックからの復活という長い戦後の歴史の中で、
日本企業は技術力を高め、そして果敢な営業と優れた製品によって海外市場に切り込んでいった。
70年代~80年代に惰眠を貪っていたアメリカ企業は後れを取り(自動車メーカーはいまだにその差を埋められずにいる)、80年代には「日本的経営」が世界的に脚光を浴びた。

アメリカ人は、良い製品であれば買うのである。
この点で、国内ブランド志向が強烈で、ノキアやLG、サムソンが世界市場を席巻していることなど気にも留めない日本人とは大きく異なる。(それだけ国内ブランドが戦後の時代を通じて築き上げたブランドイメージと、技術力、そしてマーケティングが優れていたのだろうが)

良い製品であれば買い、問題があれば声高にクレームを挙げる。
それがアメリカ国民の気質なのだろう。それは、企業にとっては、緊張感があり、公平に評価される良い市場だと言える。

②保護主義の政府
市場は公平で、良いものは海外製品であろうとも売れるアメリカだが、それを憂いる存在がいる。
アメリカ企業である。彼らは当然支持政党を持ち、ロビー活動をし、政府に働きかける。
政府は別に公平な自由市場経済を提供しなければならない道理はない。
国内産業を優先して、海外企業を差別することは、アメリカの国益に叶うと判断されれば、行われる。


日本もまた然り、農産物の輸入自由化を頑なに拒んでいる。
零細農業中心の国内農業の保護のためである。

③司法大国
アメリカは裁判大国で有名だ。権利は主張する。そういった精神が建国のときから生きているからかどうかは正直分からないが、日本人よりは裁判を色々な理由で起こす。「被害者が裁判で賠償請求」となると、「なんだ金か」と否定的に見られる日本とは異なる。

アメリカの司法がアメリカ有利なのかは良くわからない。
しかし、特許侵害など、もろもろの企業間の争いにおいて、日本企業はアメリカ企業に負け続けている。
裁判は、事前の準備によって勝敗が決まってしまう。その点で、アメリカ企業の方が訴訟について一枚上手なのかもしれない。(また推測)


というわけで、
《結論》
市場の評価は非常にドライかつ平等なアメリカであるが故に、政府は保護主義に走る。
保護主義に走ること自体は別に悪いことではない。
したがって、「米国企業ひいきだ、不公平だ、平等に扱え」と言ったところで、そうすることのメリットが見出せなければ、保護主義を続けるだろう。




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とり、鳥、とりぃ~~~!!!への憧憬 [戯言]

研修で海沿いのとある街に行って来た。

秋晴れの天気がとってもいい日で、

休憩中にふと空を見上げると、

鳶(トビ)が飛んでいるではないか。

日本で一番身近な猛禽類。

ほとんど羽ばたかず(すなわち自ら推力を発生させることなく)

目には見えない上昇気流を捉えて揚力を得、そして空を舞う。

時間を忘れて見とれてしまった。


滑空状態での緩降下、螺旋ループを描く上昇機動、そして急降下。

それらを、「生物」が何の気なしにやってのける様が、すごい。

人間もグライダーで空を飛ぶことが出来るが、

あそこまで巧みに「大気」を読み取り、決して地に落ちることなく自在に空を飛ぶことは出来ないだろう。

とまあ、現代人としては珍しい種類の感慨にふけってみたが、

歴史を紐解けば、獅子と並び、猛禽類は古来より強さ・速さ・権力・高貴さの象徴として、様々な紋章や意匠として使われてきた。

こと動物としての身体能力が極めて脆弱な人間は、(常人であれば猫や犬、猿には明らかに劣るんじゃないか?)
力ある動物に焦がれた。

焦がれるあまりに乱獲して絶滅の危機に追いやったのは、なんとも人間らしい、皮肉なことである。



それにしても、生き物が空を飛ぶとは、凄いことだ。


海で生まれた生命が陸に上がったのは、まだ分かる。
海と陸はつながっている。歩行のための脚と、呼吸器官が出来れば、陸に出ることができる。

しかし、空は、遠い存在だ。

生命の歴史上初めて飛行した生き物は昆虫なのだそうだが、昆虫の翅がどのように発生したかは
はっきりしていないのだという。

脊椎動物では、翼竜、蝙蝠、鳥類など。これらの翼は前足が進化したもの。

前足が進化した・・・などと簡単に言ってくれるが、突然変異と選択圧が気が遠くなるほど繰り返されて翼になった、ということになる。

今、この瞬間も、進化の真っ最中なのだろう。

未来にはどんな生き物が存在するのか・・・?その頃にはヒトはいないのだろうが。


というわけで、たまには鳥を見てみましょう、というお話でした。
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お好みの世界観をこねくりまわしてみる [戯言]

創世をしよう。自分好みの世界観を作ってみよう。別にまとまりを得ることは目的としない。
粘土遊びの感覚でやってみよう。


SF的要素。現代的要素。ファンタジー的要素。

どれも捨てがたい。

純ファンタジーの閉鎖的封建社会を見ていると、極限までボーダーレス化、グローバル化が進んだ資本主義経済世界を夢想するし、剣と魔法の世界を見れば、テクノロジーの粋を結集したマシンを夢想する。

それでもなお、神殿、聖地、忘れられた地など・・・ファンタジー的な記号にも強く憧れをいだく。


色々記号をピックアップしてみよう。上手く混ぜれば面白いものが出来るかもしれない。

【旧世紀】
いわゆる「大破壊」などのカタストロフィにより、技術的な断絶などが起きること。
アーマードコア、ナウシカ、パンツァードラグーン、バスタードなど

【古代文明】
高度な技術をもった古代文明の存在。

とりわけ、星間宇宙船の残骸などは、非常にカタルシスがある。
アーマードコ2、NX、ゼノギアス、マクロスなど

【魔法科学】
魔法と科学技術が融合している、あるいは、科学技術によって魔法を生み出している。

バスタードの世界では、一部のドラゴン、古巨人族、古の神々(いわゆる多神教の神)以外のファンタジー的存在は、すべて十賢者が遺伝子改造で作り出している。高度な魔法適性と知性、長大な寿命をもつエルフも、人間から作り出した種族である。

FF、バスタードなど


また、フィクションを考えるとき、極端な価値観を考えてみるのは、面白い。

例えば、【宗教が全くない国】と、【宗教的に厳格な国】。
無信教と言われる日本ですら、民間信仰や習俗には強く縛られている。それが全くないとしたら・・・どうなるのか?の考察は楽しいだろう。


【対立する観念】
世界観を作るなら、ある物差しを使い、他の物差しは捨てなければならない。

例えば、【物理的、宇宙論的に厳密な世界観】と、【ファンタジー世界、神や悪魔の登場する世界】はなかなか難しい。
神話なぞ、結局は、地球上の、ごくごく狭い地域に住んでいる民族のための、フィクションに過ぎない。無限にも思える宇宙に思いをめぐらせば、小さすぎる存在になる。

だとしたら、こう考える。(多分にメガテン的思考になるがご了承ください)

我々の住む4次元宇宙の外には、より高次の空間が広がっている。宇宙を司る存在は、人間からすれば極めて抽象的な存在である(大いなる意思、ジャムなどなど)

それらが人間にコンタクトする場合、あくまでも、【人間の認識する世界】では、【人間の主観】によって、神話の世界の登場人物のような姿に見えることになる。いわば、天使や悪魔のように見えるのである。

これら高次存在とは別に、地球上には、位相のずれた世界に住まう者たちが存在する。

彼らは、高次存在とは異なり、人間の認識する世界では感知できないものの、純然たる生命体として存在する。

これなら、人間の持つ神話がチープなものにならず、かつ、無限の宇宙を司る神、といったものを夢想できる。



他にも、【グローバル化した自由市場経済世界】と、【封建的世界】は全く相容れない。

化け物じみた力をもつ経済の力でめまぐるしい速度で発達する世界。物理的距離などさしたる意味を持たない、電子の網に覆われた世界。それはそれで魅力的。

一方で、西域、東方、暗黒大陸といった、未知の世界への憧れ、文化習俗の違う未知の国家や、忘れられた都市、聖地、大樹、女神の神殿・・・。ファンタジー的な記号も、また魅力。

両方実現するなら、どんな方法がいいか?
重ね合わせのような並行世界がいいか?でもそれだと結局は、両者は隔絶されているにも等しい。

例えば、東半球と西半球で交流が著しく困難なら・・・?理由は、海流と大気運動が、説明不能なレベルで悪く、航空機や船舶を利用しても横断ができなかったからとでも。

もしくは、伴星同士にしてもいいだろう。月の替わりに地球のような惑星が浮かぶ世界というのも・・・なかなか面白そうである。

一方は、我々の世界の遥か延長の世界。内燃機関と、電子技術が進化したグローバル世界。
一方は、全く別の発達をした世界。内燃機関や電子技術はもたないものの、霊子力、あるいは魔力、精神力といったものを、動力、エネルギーなどとして利用するファンタジー世界。

両者が初めて出会うとどうなるか・・・その考察が面白いかもしれない。

話的には、経済と電子のバックアップをもってして、未開のフロンティア、思いっきりファンタジーな世界に臨む、そんな構図だろうか。


さーて、粘土遊び終了。仮定をおいて考察をする分には楽しそうだ。しかし、わたしゃキャラクターを考える能力が恐ろしくない。またストーリーを考える力もない。プロットで力尽きそうである。

むしろ世界の成り立ちやら、その世界の歴史やらをふか~く作りこむのは楽しそうである。
我々の世界でいうところの、大航海時代みたいなのがない世界では、世界はどうなっているのか?とかとか。

こうして自分のフロム脳を再認識するのであった。



偶然の出会いと情報の取捨選択と [戯言]

今回はどんな話か?

世の中には掃いてもすれきれないほどの、作品群が溢れかえっている。果たして5年後、10年後、100年後にも手にとってもらえる作品は、どれほどあるものか。今後もものすごいスピードで新しいものが作られていくのだ。よほどのことがない限り、過去の作品など振り返ってもらえないだろう。

人が生み出した作品群は、一生かかっても見切れるものではない。

作品だけでなく、学術的な知識云々も言い始めたら、まったくもって、1人の人間の脳のキャパシティと寿命というものはちっぽけなものである。


はて、前々から言っているが、自分はわりと保守主義者。作品に関しては、イノベーター、早期購入者などには決してならず、中期~末期に気が向けば・・・という人間である。

そういうスタイルで生きていても、好きな作品群はそれなりにあるから困る。

たまに思うのだ。見落としている、まだ見ぬスンバらしい作品が実はあるのではなかろうかと。

それは多分実際にあるのだ。しかし、時間やらコストやらを天秤にかけると、新しい出会いは必要ないかな、と思ったりもする。

しかしながら、近年では、戦闘妖精・雪風と、ゼロの使い魔は、完全に偶然の発見であった。
こういう発見の可能性を自分から潰してしまうのは、勿体無いという思いもある。

しかし、いちいちチェックしていたのでは、きりがない。

軽く、「自分好み」であったとしても、既にそのジャンルでより、「自分好み」なものが存在するなら、熱心に新作をチェックしたりはしない。

たとえるなら、ACの2番煎じが出てもわざわざプレイしないし、
サイバーパンクアニメが出たとしても、よほどのことがない限り、攻殻機動隊で間に合っている、と考える。
板野一郎がマクロス以外の色んな作品の監督をやっていても、サーカスはマクロスで間に合っている、と考える。

こういった線引きは、出会いを潰す点で、勿体無いが、しかし、限られた時間と資金のやりくり、という点では有効である。そうしないと、切がないのだから。


二律背反、悩ましいところだが、とりあえず、偶然の出会いは本当に大事にしたい。熱心に情報収集しないからこそ、偶然の出会いは大事にしなければなるまい。

そのためには、ニコニコすること、気になることばはググること、などなどが大切だろう。

幸いかな、メインフィールドであるSF関係は、それほど乱立する世界ではない。映像化されるような作品はおよそ把握できている。
が、しかし、小説になるとSF世界は幅広い。絵がないぶんだけ、古いものでも今の感覚で脳内映像補完して読めてしまうので、SFの古典も読む価値があるとなると・・・底が見えない。

萌系フィールドはそもそもメインではない。よほどのことがない限りは関心を示さない。
(例えばデルフリンガーがかっこええとかM72とかゼロ戦が熱すぐるとか)

盲点なのは・・・ファンタジーフィールド。

RPGに関しては、90年代前半の良質なゲームに接した世代なので、その点では満足はしている。
とくに聖剣伝説は文句なしに神ゲーである。

が、ファンタジーも、小説も多い。ラノベも多い。ラノベの中にも萌え分が少なめなダークなものも多い。

この辺が、一番切がないと感じるところだ。重厚で良質な世界観を持つ作品が多そうな中、でも切がない・・・と。

ミヤザワケンジはすごかったのだな [戯言]

出張に行った。
新幹線に乗った。
JR東日本は各座席に雑誌が置いてある。(名前は忘れた。)

この雑誌を読む人を見かけることはあまりない。
自分も内容によって、読んだり読まなかったり・・・だが、わりと好きである。

多くの人が、この雑誌に目も止めないのは、ちょっと寂しいと思いつつ、みんなして同じ行為をするのは、
気味の悪いことだとも思う。
韓国だとドラマが視聴率30%とか行くが、なんだかみんな同じことをしているようで、ちょっと怖い。健全な国家であるためには、多様性があったほうがいい気が・・・なんとなくする。
もっとも、日本は、その多様性が世界でもっとも進展しているようにも思えるが・・・
それも内部にいる国民の主観に過ぎない)

脱線した。今月は宮沢賢治(はて、漢字あってるよな?)特集だった。

あんまり意識したことないが、彼は没後80年近く経つような人である。それはまあ、いい。

彼の代表作は、例えば、『銀河鉄道の夜』。

ここを受け流してはいけない。

80年前の宇宙観で、「銀河」とは、結構先進的ではないか??そう思ったのである。

賢治は二酸化炭素の温室効果も把握していたらしい。明治大正あたりの人としては、非常に現代に通じる科学知識をもった人だったのだろう。


さて、別記事でも紹介している、宇宙創成を資料に、宇宙観の進展について見てみよう。


ハーシェルによる太陽系が属する天の川銀河の発見:1700年代

メシエによる星雲カタログ作成:1784年まで

ヘンリッタ・リーヴィットがケフェウス型変光星を観測、変光星までの距離測定を可能とする。:1912年

エドウィン・ハッブルが星雲は天の川銀河の外にあることを証明。
天の川銀河の外には、更なる宇宙が広がっていることが判明する。:1923年

ハッブルの法則(銀河の大半は天の川銀河から遠ざかっているように見える。(ドップラー効果による赤方偏移)):1929年


天の川銀河の発見自体は、18世紀の出来事である。もっとも、日本は当時鎖国中であるし、最先端の発見というのは、一般に信憑性がもたれるのに大変長い時間がかかる。

ビックバンが学者の間で多数派の支持を得るのに、100年以上かかっている。
ましてや地動説は、1000年以上もの長きにわたって、否定されてきた。

さて、20世紀初頭というのは、どういった宇宙観だったのだろうか??
アインシュタインは相対性理論を発表して間もない時代。すなわち、ようやく宇宙を考えるための、基本ツールが
整備されたばかり・・・という時代。
それでも望遠鏡による光学観測技術、その他多くの自然科学の分野で進歩があり、少しずつ深遠宇宙の観測が可能となった時代・・・
最先端の研究者にとってそうなのだから、一般庶民にとっての宇宙観は、はるかに古く臭いものだったであろう。
「銀河」などというものに思いを馳せることがあったのだろうか?地球という惑星が、太陽系に存在することくらいは知っていたのだろうか?

そんなことを思う。


そこで、宮沢賢治である。彼はそんな宇宙論の、近代的な物理学の黎明期とでもいう時代に、今の時代に読んでも、違和感のない、時空のない交ぜになった、銀河鉄道という、幻想的な世界を作り上げた。

文学研究家は色々言うこともあるだろう。しかし、自分のような素人からすれば、『銀河鉄道の夜』は、当時の宇宙観からすれば、非常に緻密、先進的なファンタジーであったと、それでいいと思う。

「この作品は彼の価値観、宗教観を知らなければ単なるファンタジーで終わる」

それがどうした。ファンタジーに単なるもくそもあるか」

作家性などよくわからん。ただ自分は、無から、想像力のみをつかって、いや、創造力か・・・を使って、世界、世界観、人物などを緻密に作り上げること、我々のこの世界、日常とは異なる世界を体験することが好きなだけだ。だからこそ、フィクションは面白い。SFや、ファンタジーや、アニメゲームや漫画や映画や小説は面白い。

緑の地 [戯言]

ひっさしぶりに地上波を見た。

オールスター戦を観戦後、スーパーひとし君のあの番組。

そういや不思議発見は地上波でも好きな番組だったな・・・と思い出す。

古代ロマンから、地球の大自然まで、庶民であれば到底一度の人生では行ききれない数々の地へ、
この番組は案内してくれるわけで・・・。長寿番組なのも納得である。


はて、今回はグリーンランド。

アイスランドが名前的によくなく、入植が進まなかったことから、緑の地となずけられた、世界最大の島である。


分厚い氷床に覆われた極寒の地。非日常的な光景に、(もっとも、地元民にとって、それは日常なわけだが)

地球という、この宇宙に存在する珍しいであろう星の、大自然というものと、あまりに無力な人間という生命体という存在を、思い知らされるようだ。

自然を美しく、壮大なものだと思うのは、自然が私達を育むものであり、そして脅威となる、畏怖する存在だからだろうか。少なくとも、自分はそう考える。

古代の地母神崇拝は、自然の人間に対する二面性を、端的に表した信仰であろう。


はて、とりあえず、写真を画面直撮りしたので、挙げておく。


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一生行くことはないだろうと、思っている。自分がそうおもっているのだから、実際行くことはないのだろう。

極限の地は、脅威であり、感動であり、つまりロマンであり、つまるところファンタジーである。

それでもって、そういった場所への憧れが強いのである。フィクションを愛するのである。


ソラとヒト [戯言]

http://mixi.jp/view_album.pl?page=1&mode=photo&id=34736174&owner_id=23575547

mixiに写真を大量にあげました。

ソラが綺麗だすきだすきだすきだというのは、mixiの日記で書いたので、こちらはちょいと趣向を変えていきませう。


CIMG1013.JPG


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ヒトは大昔から、山の上とか、地底とか、海底とか、天空とかに、神を存在させてきました。

海や空、山などの大自然を見れば、そこから生まれでた生命のひとつに過ぎないヒトが、それらを畏怖するのも、生物的に必然なのでしょうか。

畏怖するからこそ、ヒトは自然と戦い、生き延びる術を磨いてきたとも言えるのでしょうが。
自然との調和?自然保護?
それらは、つまるところ、「ヒトにとって都合のよい自然、地球のあり方」の追求に他ならないとも言えます。
(ガンダムUCを読みましょう。こんな話題が出てきますから)

とにかく、神という超越的な存在を感じさせるほど、これら自然というのは、ヒトにとって畏れ多い存在だったのです。

未知なるもの、という点での自然の畏れは、現代においてはかなり減少しました。

少なくとも、ソラに関しては。

もっとも、脅威という点での自然の畏れは、依然として残されていますが。


神が住まうとされ、未知なる浮遊大陸と、天空の城を夢想させた、
遠く広大なるソラは、地球という小さな石ころの、薄っぺらい膜に過ぎないことが分かった時代。

とりわけヒトに多彩な表情を見せてきた雲は、大気の中でもごくごく最下層の現象に過ぎないと分かった時代。

ソラは神性を大きく削がれましたが、それでも尚、地面から見上げるしか術のない者にとっては、
内なる神・・・とでも言いましょうか、感覚に強く訴えかけ、崇高で悠久なる抽象的な存在を想起させる存在です。

では、飛行機にのって、上から見る人間は??

彼らは、上空に広がる、深く碧く暗い空・・・宇宙を想起し、そして眼下に雲海を見ます。

それもまた、崇高で悠久なる抽象的な存在を想起させるものでしょう。

ヒトを生み、育み、そして苦しめる、全くもって無感情、無慈悲の存在、地球。
そして、その地球を生んだ、宇宙。

それらに対して、深遠な感情を抱くのは、ヒトが自らの起源を考える力を持つ生き物だからか、
それとも生物としての本能がそうさせるでしょうか・・・?


最後に脱線ですが、


宇宙創成〈上〉 (新潮文庫)

宇宙創成〈上〉 (新潮文庫)




宇宙創成〈下〉 (新潮文庫)

宇宙創成〈下〉 (新潮文庫)

  • 作者: サイモン シン
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/01/28
  • メディア: 文庫



この本は面白いですよ。

現代の宇宙観が形作られるまでの、ヒトの知の探求と、知の連鎖の生んだ、偶然と奇跡の物語です。


この本で最後にちらっと出てくる、「人間原理」が面白いですね。

我々が今ここにいるのだから、宇宙は我々が誕生するようなものでなければならない。
まあ、当たり前といえば当たり前ですが。


さて、この宇宙のビックバンの発生と宇宙の進化、そしてヒトの出現は、宇宙がひとつしかないとするなら、極めて恣意的で、「できすぎている」感があるといいます。

いくつかのパラメータを少しいじるだけで、宇宙の進化は恐ろしく初期段階で止まってしまうのです。
(例えば重たい元素を作るのは結構大変。人間を構成する主要元素、炭素がとくにネック。)


このことから、別の宇宙の存在、「マルチユニバース」とでもいう考えが、真面目に提唱されているわけです。

それら別宇宙は、そもそも我々の時間軸では計れないし、物理法則も違うかもしれないので比較もできないのでしょうが。

そもそも時間+空間すなわち、時空という概念は、ビックバンとともに誕生した概念であり、ビックバン「以前」という概念は、そもそも存在し得ないなどなど・・・。



時空の始まりがビックバン。それ以前は、空間も時間もないと、空間も時間もないとは・・・人間には知覚不能です。その時間と空間すら、歪むわけで・・・。絶対なのは光速度のみ。


お次は量子論あたりを読んでみようと思います。

戦いとフィクションと [戯言]

戦争が好きな人などいないだろう。

戦争とは残酷で悲惨なものである。誰だって死にたくはない。ニュースで客観的な数字のみで示される犠牲者にも、我々同様、それぞれの人生があり、将来が「あった」わけである。

戦争など、暴力など、誰も好きではない。

殺し合いなどしたくない。

戦いなど、したくない。



しかし、「フィクション」においてはどうだろうか?


一般的理解が得られやすいものから挙げていこう。

時代劇の殺陣、侍は格好よい

歴史ものの合戦は見ごたえがある

日本史では戦国時代が好き

鎧武者、豪傑、英雄は格好いい

三国志が好き

中世の騎士は格好いい

ハリウッドのアクション映画は格好いい

ガンアクション、カースタントは格好いい




次に、一般には理解を得られないであろうものから




ガンダムなど、戦闘ロボットは格好いい

銃は格好いい

戦闘機は格好いい

軍艦は格好いい

兵器は格好いい

戦争ゲームは面白い

戦闘系、戦争系の映画、アニメーション、漫画などは面白い

勇者は格好いい





とりわけテレビゲームにおいて、戦いが存在しないゲームなどほぼないといっていい。

子どもが熱中するポケモンから、大作RPG、アクションゲームまで、テレビゲームの根幹は、「戦い」にある。

戦いは、相手を競技的に打ち負かす場合を除き、基本的に、「相手を破壊し、生命、もしくは戦闘力を奪う」ことを目的とする。
どんなに見た目がデフォルメされようが、戦いとは殺し合いである。

剣は、もっとも合理的に「人体」を破壊するために作られた刃物である。

イケメンのヒーローがブンブン振り回してコンボを決める代物ではない。その刃が人体に触れれば、肉が切れ、骨を絶ち、そして血潮を噴出させる。決して閃光が走って相手が気絶したりはしない。


銃もまた然り。銃弾が肉体に当たれば、その衝撃は内部に伝播し、組織を破壊する。口径が大きければ、人間など原型も留めない。

戦いというのはそういうものだ。
切れ、爆ぜ、焼け、潰れ、
そうやって人間は、厳かな、尊厳ある死とは程遠い、
グロテスクで醜い肉と血の塊として死ぬ、それが戦いだ。

イケメンやら美少女が爽やか華麗に行うものでは、決して、ない。

どんな美男子も美少女も、次の瞬間にはグロテスクな血と肉の塊になる、それが戦いだ。


私達は、そういった事実からは目を背け、(人によってはその事実を殊更強調するが)

小奇麗な戦いとでもいうものを嗜好し、ヒーローに憧れる。



RPGでモンスターを狩りまくる、

敵機を撃墜しまくる

それらは全て、擬似的な「殺し」である。

私達は、擬似的な殺しで爽快感を得る。罪悪感のない、純粋な爽快感を。


そして私達は、映画などのフィクションの世界の、逼迫した戦況、荒廃した世界観、智将の計略、死の迫るスリル、戦場での友情、愛、そんな要素に魅了され、「戦い」を描くフィクションを思慕する。

自身はそんな環境、境遇、状況には絶対置かれたくないと思いつつ。





何故、私達は、現実の殺し合い、戦争は全く持って好きになれないのに、フィクションのなかでは魅了されるのだろうか?
人間という生き物は、古代の叙事詩の時代から、そういった性質を持った存在らしい。



私が個人的に思うその答えは、わりと単純である。人間としてまだまだプリミティブな、子どもを見てみると、なんとなく分かる。

「人間は、強い者、力に対する憧れが強いのだ」と。

戦隊もの、ウルトラマン、仮面ライダー、スパイダーマンなどのアメリカンヒーロー。

子ども達が愛するヒーローたちは、高度な戦闘技能と、屈強な肉体、不屈の精神、そして強力な武具によって、悪、もしくは人に害なす存在(怪獣とか)を討ち、人々の安穏を守る。

そんなヒーローに対する憧れが、根底にあるのだと。

歳を取ると、その感情は人によっては、格闘家や、スポーツ選手への憧れに変化するのだと思う。(スポーツは殺しあわない「戦い」だと思う)

私のようなヲタは、勧善懲悪のような平易なものではなく、より複雑なテーマや、リアリティをもった、強い力のぶつかり合い、に惹かれるようになる。


もうひとつは、テクノロジーに対する憧れだろうか。

前記のことが、スキルの意の「技術」なら、テクノロジーの意の「技術」である。

少なくとも、男の子というのは、子どもの頃から、メカに対する興味、憧れが強いものらしい。

車でも、船でも、飛行機でも、男の子は機械が好きである。

兵器は、最先端のテクノロジーの粋を集めたものである。そこに我々は魅了されるのかもしれない。



最後に、動物というのは、人間に限らず、必要とあらば、戦う存在だからではないだろうか。


猿だったころは、縄張り争い、知恵を持ち文明を高度に発達させても、進化した猿は縄張り争いを止めることを学習しない。

集団において、外部から自分達を守る戦士は尊敬される存在であり、そして、雄ならばその戦士になるべき、あるいはなりたいと思っている。


そんな本能が、遺伝子レベルで人間には組み込まれているのかもしれない。






そして現代。

日本は今日も意味不明な事件は起きるものの、北のあの国は様子が相変わらずおかしいものの、基本的に平和である。
この国には兵役もないし、そこまでして強くなりたくはない。

そんな平和な世界だからこそ、歴史のむこうの、あるいは架空の世界の、力を持って戦う存在、に、憧れだけを抱くのかもしれない。

そう、実際に平和が崩れたなら、我々はその意思に関係なく、混濁した状況に流され、虫けらのように死ぬか、生きるために戦っているか、になる。
そんな状況では、歴史の、架空のヒーローに憧れる暇すらないだろう。

そんな状況で必要なのは、
ここには存在しない英雄ではなく、
自分自身の力と、
現実に、ここに実在する、力ある者、後の世に、英雄と呼ばれるかもしれない存在である。




オリコンランキング☆ [戯言]

mixi(ry





更新ついでにニュースを見つけたので。
http://contents.oricon.co.jp/news/ranking/60269/full#rk

リンク載せといてなんだが、自分はオリコンはほんとに嫌いである。いやほんとすみません。
というか、音楽ランキングつけて何?とか考えてしまうのである。

いやまあ、自分が好きなミュージシャンが微妙に上
(といってもCDTVで100位以内に入ったら上ってレベルですが)に入ると素直にうれしいけど、
ランキングから曲やミュージシャンを見つけて選ぶって発想はないのですね。


別に家電製品とかはランキング上位のもので問題ないんだけど、
実用性以外が幅を利かせる世界では、ランキングは正直どうでもいい。


『今季の売れ筋アイテム☆』を 
ぷっすまの「ここいち当てましょう」でやってるけど、

売れ筋=みんな持ってるアイテム なのである。こだわりも何もあったものじゃない。切ないったらありゃしない。


ベストセラーってのも考えものである。「いい本」と喧伝されて読んだら、だいたいの人は無批判に受け入れる。批判されるべき点がある本が、幅を利かせるのは、ちょっと怖い。

『女性の品格』って本が、何かの雑誌(Switchとかだったかな?)でぼろくそに批判されてたのを見たが、あの本、世間的には結構売れた本なのである。怖い怖い。


映画なんかも、正直自分には小難しいことは良くわからないが、業界で期待の新作だとか喧伝されると、「難しくて良くわからないけど、なんとなく面白いかな?」ってな具合に流されてしまう可能性がある。



そうやって考えると、レビューってのもほんと良くわからない。
とくに映画、音楽、本。これらのレビューって、結局は「主観」つまり、感想にすぎない。
しかし中には、まるで事実ですと言わんばかりに断定する輩もいる。


まあ、ミュージシャンは大概にしてレビューとかインタビューが嫌いなのも頷ける。
インタビュアーが書きたい方向に誘導尋問されるわけだから堪らない。



結局、人の意見や世間の評判は半分くらい聞き流すくらいでいいような気がする。

自分と違う意見なら、「ひとつのものからいろんな感想がでて面白いな」程度に流し、
同じ意見ならものすごくうれしくなる。

それくらいでいい気がする。


最後にリンク先の記事についての感想。
ジュディマリとユニコーンはともかく、ZONEとルナシーは、ない。まじでない、どうしてもない。

こだわりは痛い?inspired by Opportunity&Spirit [戯言]

mixiからのて(ry





こういう人って案外多いと思うが、
「語っちゃうこと」って結構あるんじゃないだろうか。
内容は人生観、仕事、恋愛、趣味、なんだっていい。

今自分が書いてるコレもその一種だろう。

なんだかしかし、思うことをベラベラと、さも、「自分はちょっとこだわってます」風に話す以上の意味は結局ないんじゃないかと。
アイデンティティ、自己の拠り所といったものを持ちたいが故の行動じゃないかと。

例えば、「お笑いブームとして扱うな。俄かファンとか最悪。笑いの面白さは・・・以下略」

みたいなことを人前で語るのって、冷静に考えると痛い。そして、お笑いについて深く考えれば考えるほど、ブームに一番踊らされていたりするものだ。

それでは、誰にも話さずに、さっきみたいなことを考えるのはどうなんだろうか?

冷めた見方をすれば、捻くれてるだけともとれる。

まあ捻くれること自体、自分は否定しない、というか自分自身相当捻くれてるので、捻くれてていいじゃん、とも思う。

やっぱり、人に話す話さないは問わず、自己のアイデンティティのために人間はこだわったり、語ったりするのかもしれない。

さて、つまり、こんなことをダラダラと書くのも、相当痛いのである。だって、どうでもいいことなのだから。
←そして、これも痛い。←痛い。←以下略。

わかっててもついつい考えてしまう、もう自分は痛くていいです。


ちなみに今日の内容は
『うれしい悲鳴をあげてくれ』 いしわたり淳治
のなかの、DANCE IN THE BOOOOOMにインスパイアされて書いたものです。

これは元SUPERCARのギター作詞、最近ではチャットモンチーのプロデュースなんかをやっている、
いしわたり淳治氏がロッキンオンジャパンで連載している『Opportunity&Spirit』をまとめて収録したもので、淳治氏のエッセイや小説がのっています。

淳治氏も結構な捻くれものかつ、世の中に対して斜めってる人で、読んでいて共感してしまう自分は、やっぱり捻くれてるんだなと思いました。
もっとも、淳治氏に比べたら自分はミジンコみたいなもんですが。

俺って淳治氏と似たようなこと考えたことある!!などと、ちょっと感動してしまう、
光年単位でぶっとんで 『自己満』かつ『痛い』ですね。
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